日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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97日本イスラーム史 ―7世紀から20世紀前半(1945年)まで―ラーム活動に奉仕して、神戸、名古屋、東京モスクの創建や、外国人ムスリムの支援などに大きく貢献した。日本人聖地マッカ巡礼者と活躍した先駆者これら先駆者の中で日本人としてマッカ巡礼者(ハッジ)第1号の栄誉を保持するのが、山岡光太郎・オマル(広島・1880〜1959年)である。山岡は東京外国語学校ロシア語科を卒業後、中国、ロシアの現地踏査に従事したが、ロシアのアブドゥルレシト・イブラーヒーム師の教示により1909年、インド経由にて聖地マッカの巡礼を行った。その時にサウジアラビア建国の父アブドルアジーズ・アール・サウード国王に黒紋付袴はかまの礼装で謁えっ見けんを果たしている。著書に『アラビア縦断記』(1912年)、『回フイ々フイ教の神秘的威力』(1921年)、『血と銭』(1936年)など多くあり、足跡はアジア、アフリカ、ヨーロッパ三大陸から南米に迄及んだ。山岡の薫くん陶とうを受けた人材には三田了一、小村不二男などがいる。山岡は終戦後も健在で国会図書館に足繁しげく通い、長い白髭のため仙人と呼ばれ、イスラーム会合にもよく顔を見せた。終生独身を守り、最後は堺市の老人施設「福生園」で波乱万丈の生涯を終えた。山岡に次ぐ、日本人巡礼者第2号は田中逸平・ヌール(東京小金井・1882〜1934年)であり、1924年に中国の山東省モスクで正式な入信式を行い、マッカ巡礼を済ませて翌年『イスラム巡礼 白雲遊記』を出版している。田中は1933(昭和8)年に再度マッカ巡礼に参加するが、帰途の船中で病に倒れ、帰国後直ぐに他界した。葬儀は青山斎場において日本人で初めて、また戦前で唯

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