日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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99日本イスラーム史 ―7世紀から20世紀前半(1945年)まで―筋金入りの国士であり、満州での生活が長く奉天の「文化清真寺」顧問などを務めた。なお松林の後は川谷建彰がその意志を継いでいる。戦後に『日本イスラーム史』を出版した小村不二男・ムスタファー(京都・1912〜98年)も内蒙古で活躍をしたひとりで、戦前から三田と共に活動してきた。日本人留学生の系譜イスラームを学んだ初の日本人留学生は、田中逸平の地方公演に感銘し入信を決意した青森の陸軍中尉、益子勇である。クルバンアリーの推薦で1930年にカイロのイスラーム最高学府アズハル大学へ留学した。しかし満州事変の勃発で中国人留学生と乱闘して居づらくなり、翌年イランに移るが、テヘラン南方のモスクで病没した。そのアズハル大学では1934年に日本語講座を開設して、その時の外務省留学生、中野英治郎が教えていた時期があった。当時のカイロには外務省から、戦後にアラビスト大使として中東外交で功績を上げられた田村秀治、小高正直、多田利雄、および、アラビア語辞書をまとめ、創価大学教授となった川崎寅雄、アラビア石油の創立者山下太郎の通訳者として活躍する林昂・オマルなどがおられた。その後のアズハル大学留学組には1936年、小林哲夫・オマル・ファイサルがおり、1939年には中野学校出身の萱葺信正・イブラーヒーム、後藤信厳が続いている。日本人のマッカ巡礼は1934年、一挙に4人が参加した。郡正三・ムハマッド・アブドゥルワリーを団長にして、鈴木剛・ムハマッド・サーリフ、細川将・ムハマッド・アブドゥルムナイムに加えてカ

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