日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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100ブールから来た山本太郎・ムハマッド・アフマッドであった。翌年にも郡正三と2名がカイロまで来たが、旅費が届かずに巡礼を断念して帰国している。1936年には、鈴木剛と細川将が二回目のマッカ巡礼を敢行し、「上海毎日」勤務の榎本桃太郎を伴った。榎本は終戦後にインドへ渡るが、1951年にネパールの滝で投身自殺をした。その翌年も鈴木剛は山本太郎を伴い、満州国のムスリム張世安を連れて、三度目のマッカ巡礼を果たし、この後で著書『メッカ巡礼記』を出版している。なお、鈴木らの後ろ盾となり巡礼費用を工面したのは、『日本とイスラム世界』の著書もある右翼の若林半であった。同年にカイロから小林哲夫も巡礼に参加しているが、鈴木剛グループとの遭遇はなかった。翌1939年にも小林は、アズハル留学生の萱葺、後藤と一緒に再度のマッカ巡礼をしてから、単独でシーア派の聖地であるイラクのカルバラ、ナジャフを訪れている。イスラーム機関の創設太平洋戦争を控えたその頃は、東南アジアを含む〝大東亜共栄圏〞と名付けた日本軍部にとりイスラーム対策は急務であった。すでに1934年インド系ムスリムの手で神戸モスクが建立されたが、1938(昭和13)年、東京の代々木大山町にエジプト様式の華麗な光塔(ミナレット)を持つ「東京回教寺院(東京ジャーミィ)」が完成する。起工式は前年の10月で半年余りの突貫工事であったが、5月の落成式は内外から著名な招待客が参集して盛大であった。サウジアラビア国王代理、ハーフィズ・ワハバ駐英公使、イエメンからサイフル・イスラーム・アルフセイン王子とキブシー宗教大臣、エジプ

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