日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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103日本イスラーム史 ―7世紀から20世紀前半(1945年)まで―インドネシアでの民族工作は「ジャワ回教別班」と「セレベス回教協会」が担当した。「ジャワ回教別班」には中野学校出身者が多く、また現地に長く在住した邦人も含まれ、この責任担当者がマッカ巡礼者の細川将であり、細川が途中で帰国したことで、ハッジ・鈴木剛に交代した。鈴木は日本での業務を松林亮に託し、日本で入信して戦後に一部上場企業となる丹青社を創立した渡辺正治・アブドゥルモニール(新潟・1913〜96年)を伴った。現地では在住者の大西伸治・アブドゥルハミッドらの協力を得て、ボゴールに優秀なインドネシア人青少年を募集し「ジャワ回教青年隊(ヒズブッラー)」を結成し、日本式のイスラーム教育訓練を施した。これが1939年「ジャワ郷土防衛義勇軍」の母体となり、柳川宗成、吉住留五郎、市来竜夫らが参加したインドネシア独立戦争に続く。柳川はインドネシア人部隊を指揮して生き残り、現地に帰化するが、吉住と市来は壮烈に戦い殉死した。ちなみに吉住の妻はハッジ・小林哲夫の実妹という関係にあった。他方「セレベス回教協会」は海軍に属し、現地在住が長かった近藤三郎、加藤常松らがいたが、そこに派遣されたのがカイロで学んだ、ハッジ・小林哲夫・オマル・ファイサル(兵庫・1911〜43年)だった。1939年末に帰国した時に外務省から執筆を依頼された遺作『インドネシアの回教』の出版は小林が出発した後となる。小林はアズハル時代からインドネシア留学生と親しく交際し、気心を通じていたので現地にすぐ溶け込み、セレベスだけでなく「ボルネオ回教協会」や、アンボンに「セラム回教協会」も設立している。1942年のミッドウェー海戦から戦局が変わり、セレベス方面も安全ではなかったが、1943年6月に小林はアンボンへ出張し、前田大将と同乗して空路マカッサルへ向かった。その途中不幸にも米空軍機B29と遭遇して撃墜され、ポマラ南方の海中に墜落した。小林の墓地

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