日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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104は、マカッサル市西方の霊園の中で今も静かに佇む。マレー半島の昭南島(シンガポール)から北上してビルマのアラカン地方アキヤブにはハッジ・萱葺信正が派遣されて、ビルマ・ムスリムの宣伝宣撫工作に従事した。萱葺はマレーで日本軍が〝イスラーム礼拝の方角を聖地マッカでなく皇居の方向に変えよ〞と布令した愚につき述懐しており、完敗したインパール作戦を目にしながらも無事に引き揚げてきた。 戦後は三菱商事のインド駐在員、カイロ支店長、中東監督・取締役に昇進して、アラブ諸国との商談に敏腕を発揮された。同じ頃にマレー半島へ軍属の通信員として派遣された好青年の五百旗部陽二郎・ムハンマド・オマルは、現地で入信し戦後は日本ムスリム協会会長に就任している。終戦と日本のイスラーム終戦の年、1945年4月、日本イスラーム史でかけがえのない2人の貴重な人材を同時に失うことになる。この頃は日本本土への空襲が激しくなり、周辺の制空権と海路の安全は奪われて母国への帰還は不可能に近かった。だが連合軍との特別協定により、南方各地に収容されている軍人捕虜への慰問品などを輸送する任務のチャーター船、1万トン余の新造貨客船「阿波丸」が就航したのである。航行途中で敵味方に誤認されないよう、船腹を白く塗装して大きな緑十字が描かれ、安全保障のため事前にそのコースが連合軍側に通達されていた。母国へ帰還できる最後のチャンスとして乗船の希望者が殺到し、実に定員の15倍を超す2,000人以上を乗せてジャカルタから出航した。だが日本軍はその協定を逆

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