日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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162このような自然な霊性の発露として、鈴木が早くより着目してしきりに取り上げてきたのは、江戸時代以降に各地で現れた妙みょう好こう人にんと称される人たちであった。妙好とは、泥沼の中に咲き誇る一輪の白い蓮の花のことである。そして妙好人とは朝な夕なに一日中、念仏三昧に明け暮れた人々であり、生きること自体があり難く、生きる姿そのままが念仏になっているといった風情の、格別に徳行の高い人々である。島根県の浅原才一、足利源左衛門、香川県讃岐の庄松、京都府綾部市の三田源七など、多数の妙好人の記録がつぶさに残されてきている。才一の言葉をひとつ引用しておこう。「わたしや、あなたの六字の中に封じ込められ、なむあみだぶつ。」これを読む人には、念仏に委ねきった才一のあり方と、その末に見出した安寧の心境を、直ちに察知できると思われるのである。さて、ここらで筆をイスラームの信心の方へ向けなければならない。その要点から始めると、イスラーム信仰の心根も仏教と同様に、「和なごやかさ(トゥマウニーナ)」であると言えるのである。五 それは激しさや強引さとは全く逆の、たおやかな感謝と慈しみの気持ちである。百の学説や千巻の書物ではなく、それは静かに礼拝する人の姿や偉大な自然に、ふと教えられるものかもしれない。万物の主であるアッラーを思い、自分が生かしていただけるあり難さと、またそれを自らの周辺にも願う気持ちである。いま少し敷衍すると、次のような表現もある。信仰は単に口先の問題ではなく、太陽が光を放ちバラが香りを蒔まくように、篤信が心に満たされ、その様が傍はた目めにも分かるようになる。アッラーと預言者ムハンマドに対する愛情は強まり、それはその人の言動すべてに溢れ出てくることとなる。それは同時にアッラーに対する畏怖心でもある。

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