日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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79イスラームのグローバリゼーションと日本神と人との間には絶対の断絶がある。…仏教においては、仏がわれわれ凡ぼん夫ぷを救い取ったあとでは、凡夫は仏そのものとなるのである」などを引いて、神と人間との間に差別があるのなら、その神の「慈悲」は絶対的なものではないと分析する。東は、ここでは「イスラームの神」と限定しているが、人間との間に絶対的な断絶があるのはユダヤ教、キリスト教も含む「一神教の神」の特性である。そして、「この〝慈悲〞を、その性格や教義が全く相違するイスラームの神にあてるのは、少なくとも仏教の側からみると、不適正であるといわなければならない」(185、195ページ)と厳しく批判している。一神教の教義では、永遠の神と有限な被造物である人間との、この絶対的断絶をさまざまな工夫によって乗り越えようとしてきた。ユダヤ教では信徒を「選民」とし、「約束の地を与える」という囲い込みによって、神との結びつきをはかろうとしてきた。キリスト教では、言うまでもなく、創唱者イエスを「救い主・神の子」として神と人間の仲ちゅう保ほ者しゃとみなした。イスラームでは、人間に神の言葉クルアーンを与えることによって、神の意志を地上に実現させようとした。このような図式化は、単純すぎるかもしれないが、唯一の絶対者に立ち向かう人間の側から見れば、それらは人間が生きるための指針となる工夫である。一神教のこのような工夫は、仏教の天地自然の法則「ダルマ」の考えと似ていないであろうか。東は「週刊仏教タイムス」の紙面で、日本ムスリム協会の名誉会長、樋口美作と対談した際に「ブッダは目覚めた人で、法に目覚めるということなのです。法に目覚めれば、誰でもブッダになれる」(2005年8月4日付、第2面、「イスラームの1000年」)と言っている。「法」(ダルマ)は宗教的な解げ脱だつにいたる道へと人びとを導く正しい教え、あるいは「真理」を意味するといわれるが、これを一神教の神の導

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