日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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80きや神の教えと同様に考えることはできないであろうか。仏教は世界中にさまざまなかたちで展開しているので、一概に「仏教では」と断言することはできないが、一般に仏教では、「神」のような恒久的な実体の存在を認めない反面、「法」には絶対的な価値があると考えられている。この絶対的真理「ダルマ」に覚醒した人間が「仏」となる、ということは、全身全霊で「法」に従う人が「仏」となることと同じことではないかと思われる。そうであれば、「魂の救済」という意味においては「神に従う者」と「法に従う者」は同じ次元にあるのではないか。神と人間、法と人間、それぞれの間には教理的には大きな断絶があるが、「従う」あるいは「悟る」という行為によって、どちらの側の人間も救われるのである。ここで、一神教の「神」は、仏教では仏ではなく「法」と対比されるということに気づく。それでは「仏」は何に対比されるであろうか。私は、「仏」は「神の子」あるいは「聖者」と対比されるのではないかと考える。「神の子」や「聖者」は覚者でもあり、普通の人間には得ることのできない聖性を与えられた特別な存在である。イスラームの聖者崇敬については、ここではこれ以上言及しないが、イスラーム世界に広く根づいている民衆的信仰であることは言うまでもない七 。「神の子」を三位一体説にしたがって「イエス・キリスト」と固定してしまえば、このような対比は成り立たないかもしれないが、聖書の記述にもあるような「人の子」というように、広い範囲で考えるなら、「仏」と対比され得よう。人間は、誰でもが真理に目覚めることによって、「人の子」にも「聖者」にも「仏」にもなる可能性がある。しかし、現実には、「真理に目覚める」ことは極めて難しいことであり、

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