日本に生きるイスラーム ―過去・現在・未来―
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81イスラームのグローバリゼーションと日本実際には誰にでもできることではない。この点は仏教においても同様である。イスラームの神に従う者も、仏教の法に目覚める者も、どちらの魂も信仰によって救済されると考えるなら、一神教の神が無慈悲で、仏教の仏こそが慈悲深い、と断言することはできない。中村元は「世界創造神」は慈悲深い神ではあり得ないというが、「存在の苦しみ」はダルマのもとにある仏教徒にも平等に降りかかる。一神教において「世界創造神」に「絶対的な慈悲」や「絶対的な愛」をあてるのは、神は正しいことしか行わない、という神義論が基盤となっているからである。しかし、この「絶対的な慈悲」や「絶対的な愛」などは、現実の世界では実現不可能な究極の理想である。実現不可能な理想は、現実の社会の中では、机上の空論にすぎないが、宗教においては、理想が実現不可能であればあるほど、尊くありがたい教えとなる。なぜなら、社会も現実も超越した高い次元に魂の救済を求める精神の働きこそが信仰となり修行となるからである。この点は、日常性・社会性を重要視するイスラームにおいても同様である。一神教の神の「愛」と仏教の「慈悲」との相違点については、さまざまな立場があるが、私は突き詰めて考えれば、どちらも同じく究極の理想であり、宗教を支える原動力ではないかと思う。五.宗教用語の日本語化前述の「仏教用語」の借用について、もう一度考えてみたい。たしかに、東隆眞の批判や疑問は、日本のイスラーム研究者が、イスラームの教義を日本語で解説する際に、あまり深い意図を持たないまま、

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