サウジアラビアと日本 ―その素顔と絆―
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113サウジアラビアと私総選挙が行われ、連立南北内閣が発足した。その後、統一推進についての旧南北グループ間の対立が深刻化したが、統一の危機を回避するための政治対話委員会が開催され、94年2月、ヨルダンの首都アンマンでイエメン統一推進のための合意文書が署名されている。ところが、その後も旧南北勢力間の対立が続き、ついに武力衝突にまで至ったのであった。そもそもイエメンはアラビア半島の住民の発祥の地といわれている。サウジアラビア人にとってイエメンは、民族の源流とも言える。その後イエメンとサウジアラビアとの交流は活発で、イエメンの商人が多数サウジアラビアに定着し、商業的発展に貢献した。また、多数のイエメン人がサウジアラビアに出稼ぎに来た。サウジアラビア政府は、イエメン人労働者の入国を優遇したのである。また、サウジアラビアはイエメンに寛大な財政援助を行い、最貧国イエメンの経済を支えた。ところが湾岸危機に際して、イエメンはサダム・フセインを支持した。湾岸危機は単にサダム・フセインがクウェートに侵攻したのみならず、サウジアラビアも侵攻の危機にさらされたのであり、サダム・フセインは最大の脅威であった。そのサダムをイエメンが支持したので、サウジアラビアはイエメンに裏切られたと思っても不思議ではなかった。サウジアラビアはイエメン政策を基本的に見直し、イエメン人の出稼ぎ者に対する優遇措置を廃止し、イエメンに対する財政援助も打ち切った。このように湾岸危機を機にサウジアラビアとイエメンとの関係は悪化したが、サウジアラビアにとってイエメンは国境を接する隣国であり、そのイエメンで内戦が起きたことは、サウジアラビアにとって好ましくなく、サウジアラビアはイエメン情勢の安定化を望んだのであった。今サウジアラビアにとって頭が痛いのは、イエメンがイスラーム過激派の本拠地の一つになりつつあ

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