サウジアラビアと日本 ―その素顔と絆―
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55より良き未来を約束するためにアイマン)を乗せて、ベイルート空港を出発し、2泊をかけて私たちを羽田空港へと運んだ。飛行機は、テヘラン空港、ボンベイ空港、カルカッタ空港、バンコク空港、そして香港空港を経由した。機内での客室乗務員の接客態度は、その大地を通過する空路にふさわしいものであり、ベイルートからテヘランへの空路での接客は、サウジアラビア航空のジェッダからベイルート間の接客と同様に良好であったが、テヘランからボンベイの空路での接客は悪く、ボンベイからカルカッタへの空路ではさらに悪化し、カルカッタからバンコクへの空路では輪をかけて悪化した。しかし、バンコクから香港への空路では、ベイルートからテヘランへの空路と同様に良好となり、更に、香港から東京への空路では一変して、最上の接客を楽しむことができた。それは予想した通りであった。香港では新たな乗務員が搭乗し、接客は大いに改善された。彼らは質の高いサービスを提供し、美味な機内食をサーブし、呼び出しボタンにはできるだけ早く対応し、その最中にも彼らは常に私の疲れきった息子たちに暖かい笑顔を注いでくれた。対照的に、そこまでの空路では呼び出しボタンは無視され、機内食の準備は悪く、インド大陸でのトランジットではDDTを振り掛けられ、排水は通路に溢れかえり、必要があっても席を離れることを禁止され、私たちは彫像のようにエコノミークラスの席に釘付けになり、さらにそこには、席のない赤ん坊すらいたのであった。羽田空港への着陸の直前に、入国カードが配られ、それはその後私たちが送る年月のはじまりであった。つまり、聞きなれない言語、見知らぬ社会での生活のはじまりであった。この赴任は、私にとって、アラビア語圏以外での初めての勤務であった。日本に関する私の知識は限られており、私の関心を最も集めたのは、東京が世界で最も人口密度の高い首都であるということであり、日本の製品とテクノロジーは世界に広く流通しており、そして最も安い製品であり、日本は1945年に

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