サウジアラビアと日本 ―その素顔と絆―
97/222

93より良き未来を約束するためににしていた。しかし懐かしいモロヘイヤやオクラは日本にはほとんどなかった。1963年の暮れからは、翌年の東京オリンピックの観客を迎える準備がはじまり、大使館の近くに「ジャーマン・バーガー」というパン屋が開店した。私たちはそれまで食べていたトースト用パンから丸いバンズに切り替えた。そして、このお店ではじめてハンバーガーを食べた。大使は私を銀座にある焼き鳥レストランに連れて行ってくれ、私たち家族もお金に余裕があるときには、決まってこのお店に足を運んだ。このお店の名前は「とりじん」といい、私たちはいつもそこで焼き鳥の串とご飯と鶏がらスープを堪能した。焼き鳥の串を注文するときは、周囲の日本人客の注文しているものを見て、ひとつずつ食べ進めなければならなかった。また時には中華やイタリアンのレストランに行くこともあった。私たちはメニューを開き、予算内のものを選び、さらにその料理が食べることができる食材なのかどうか確認する必要があった。ラシャーは東京での生活費が高いことに驚き、私の妻が倹約に努力したことを評価しつつ、生活にそんなにコストがかかるのかと聞いてきたので、そうだと答えた。当時私たちには、アラビア語を話す者であれ日本人であれ、多くの友人がいたが、それは外交官という職業柄、人と付き合い友人を作る必要があり、それを通じてその国を知り、相互理解につとめるからである。最初の友人たちはアラブ諸国の外交官、特に近い年齢の子どものいる家族であった。私たちは土日によく一緒に出かけ、郊外にピクニックに行ったものであった。東京の郊外の自然はすばらしく、深い森に覆われ、自然を愛する者を迎えてくれ、子どもたちは遊びまわった。私たちはサンドイッチやジュースを持参し、ときには池のほとりや許可された公園で鶏肉のバーベキューをしたりした。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です